食べられるものってなんだろうって考えました
そういえば、私が自分で獲った生き物を食べたくて猟師になりたい時があった。1人でするより2人以上でする方が心強いのでそれを友人たちに持ちかけた。
そうすると、「自分で殺せない」「獲ったものは食べてみたい」なんてことを言われることが大半で、まああとは「山に入るのが面倒」とかだった。まあ、獲ったものは食べたいというのは、社交辞令というか、断り文句みたいなものなような気もするが、それでも彼女の口から出た言葉ではあった。(ちなみに、この中にベジタリアン的な人はいない)
中には興味を示した人もいたような気がするが、いたとしてもごく少数だったし、私が今の状況だと猟師にはなれないと理解した後だったので、結局誰かと一緒に何かしたということはなかった。
殺せない?食べられる?
さて、ふと猟師云々から離れて考えたときに、自分で殺せない、獲ったものは食べてみたい、とは、私にとっては結構なかなか口に出すのがはばかられるフレーズだなと思った。
それというのは、自分が普段食べている肉を誰かが屠殺していることを理解した上で、自分ではできないと言っていることと同じに感じたからだ。
何かを殺して食べていることは理解しているのに自分が殺すことはできないって、なんだか嫌なことを誰かに押し付けているようだと思う。(普段食べている肉に関しては、屠殺業者に間接的にでもお金を払っているので、押し付けているまではいえないとも思う。)
自分で鹿を撃てないという人たちでも生きた魚を調理することができる人は多いんじゃないだろうか。魚が無理でも、エビは、貝は、ホヤは*1と、落としていった時に多くの人はいつか調理できるものがあるはずだ。
私が殺せるもの、殺せないもの
じゃあ、その境界線はなんだろう。これは人それぞれだと思うので、私の境界線を考えた。
私が調理できるもの
- 植物全般
- きのこ
- スーパーで売られている肉(誰かが殺して加工した生き物)
- 魚介類
- カエルとか
私が調理できないもの
- 人間
- 飼っていたいぬ*2
私が調理できるかわからないもの
- 鶏
- 鹿
- 牛
- 豚
全く網羅できないが、ざっくりこんな感じでしょう。多くの人と多少の差はあれど概ね被っているのではないかと思う。多分この3項目の中で重要なのは、「調理できるかわからないもの」だ。
調理できるかわからない、の正体
なぜ、調理、というか、屠殺・捕殺することができないかもしれないと思ってしまうんだろう。
屠殺・捕殺できないと断言しないのは、確実に私がこれまでに食べてきたからだ。できないと言ってしまうと、筋が通らないように感じる*3し、多分、私はその場になれば、きちんとした配慮を学んだ上で、できる、と思う。
ただ、鶏や鹿や牛や豚が、いつ飼っていたいぬと同じ立場になるかもわからない*4。飼っていたいぬは、ララちゃんだ。ララちゃんが、牛だったら?私は私の学んだ限りの苦痛を伴わない方法でも、ララちゃんを調理できるだろうか。
人間はともかく*5、いぬのララちゃんと牛のララちゃんの違いは、多分ない。私が牛のララちゃんを飼っていたとしたら、調理できないものに入れたと思う。(ちなみに、私は飼っていない犬は頑張れば調理できると思う)
牛のララちゃんと他の牛の間には、私との過去や未来がある。私は人間やララちゃんに私との過去や未来を見てしまい、食べることができない。ララちゃんが明日も明後日も来年もそこにいる未来、それを自分で断ち切ることが悲しくてできない。
私はララちゃんになるかもしれない生き物を、調理できると断言できないんだと思う。これが、調理できるかわからない、の正体だと思う。
終わり
最後ちょっと尻切れとんぼだけど、とりあえずおしまい。
また何かあったら追記とか修正とかする。